2009年度第1学期                       入江幸男
学部:哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」
大学院:現代哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」
 

        第五回講義(2009年5月15日)
 

 
Was bisher geschah. 先週の復習と補足
 
1、テーゼ「存在するとは、意識されていることである」の説明
観念論を徹底して、意識の担い手としての精神的実体の存在を認めないとき、意識はどのように存在することになるのだろうか。
 
問題「意識されていない心的状態があることを証明できるだろうか?」
 
先週述べた②の立場をもう一度検討してみよう。
<私が壁を見ている。そして私は「私は壁を見ている」という信念をもつとしよう。この信念が成立しているとき、「私が壁を見ている」という信念についての気付きがある。>
 
これが、先週述べた②の主張である。この「気付き」の代わりに、「前反省的意識」や「高次の思想」を入れてもよい。つまり、この「気付き」をどのようなものと考えるかについては、いろいろな可能性がありうる。しかし、この立場に共通しているのは、<この「気付き」は、更に意識される必要はない>という立場である。
 
<この「気付き」は更に意識されることなく存在しており、それだけで存在しており、精神的実体の属性として存在したり、脳状態への付随現象として存在したり、する必要は無い。>
 
この立場を主張するには、「意識されない「気付き」があることをどのようにして知ることができるのか?」という問いに答えなければならない。それは、意識されていなかった「気付き」を意識することによるしかないだろう。意識されていなかったときにも、それが存在していたということは、推論するしかないであろう。
 
ではその推論の論拠は何だろうか。たとえば、「アメリカの大統領は誰か」と問われて、私は「オバマです」と答えることができる。しかし、そのように問われるまでは、そのことを全く考えていなかったとしよう。私は、それを記憶されていたので、簡単にそれを思い出すことが出来たのである。記憶は、心的状態なのだろうか。それとも、それは脳の物理的状態であり、それが思い出されたときに初めて、心的状態になるのだろうか。
それとも、それは思い出される前も心的な状態として、意識されない形で脳状態にsuperveneしているのだろうか? かりに後者であるとするとき、それを想像することはできるが、しかし、そのことを知ることはできない。なぜなら、記憶の脳状態は、調べられても、それに心的状態がsuperveneしているかどうかは、当人にしかわからないからである。そして、この場合、意識されていない心的状態なのであるから、当人にも原理的に突き止めることが出来ない。
 (感覚の場合にもどうようであろう。)
 
答え:②の立場を想像することはできるが、それを証明することは、原理的に不可能である。②が選択されるのは、他の選択肢が、②以上にありそうにないと解かったときに限る。
 
問題「複数の意識状態の関係は、どのようにして意識されるのか?」
 
先週述べた①の立場も②の立場も、この問に答える必要がある。
これまでは、一つ一つの意識状態がどのようにして成立するのかを考えたが、我々の意識状態は、多くの場合に、多様な内容から出来ている。このような事態の成立をどう説明することができるだろうか。
 
答え:複数の意識状態があることを知るには、複数の心的状態のそれぞれについて、それを反省したり、気付いたりする複数の意識状態があるだけでは、不十分である。それら複数の心的状態ないし意識状態の成立に気づいている一つの気付きがなければならない。
 
答えの証明:我々は日常生活において同時に様々な事柄に気づいている。しかし、同時に様々なことに気づいていることには気付いていないときがある。それは、複数の気付きがあることとか、複数の気付きの関係とか、に気付いていないということである。しかし、複数の気付きがあるとき、その二つの気付きの内容には気付いているはずである。なぜなら、気付きのないように気付いていないのだとすると、二つの気付きは存在しないことになるからである。二つの気付きの内容に気付いているが、しかしその存在には気付いていないというとき、じつはその場合の二つの気付きの内容の気付きは、一つの気付きなのではないか。それゆえに、二つの気付きの存在に気づくということがないのである。気付きというものは、一つなのではないだろうか。もちろん、二つの気付きがあり、その二つが存在していることをさらに気付くということもあるかもしれないが、それはかなり注意深い努力を要する態度であるように思われる。通常の場合に、我々の気付きは一つである。さらに、このような二つの気付きに気付くという場合にも、最も基底的な気付きはつねに一つである。
 
以上の考察から、次のテーゼを主張したい。
テーゼ「基底的な気付きは一つである」
このテーゼは、基底的な気付き以外の気付きの可能性をみとめること、気付かれていない心的状態の可能性をみとめること、と両立する。(上の考察では、このテーゼの証明として十分であるかどうかわからないが、より明確な証明がどのようにして可能であるのか、今のところわからない。)
 
問題1:この基底的な気付きは、主観-客観でなければならないのか、どうか?
問題2:この基底的な気付きは、個人の気付きを超えたものであるのか、どうか?
 
 
●フィヒテの答え:
フィヒテは、この基底的な気付きは、主観-客観であり、個人の気付きを超えたものであると考える。
 

      §4 フィヒテの知的直観による知の説明
 
1、フィヒテが知的直観を語るいくつかの文脈
(1)壁や机などの対象の意識が成立するための条件として知的直観を想定する。
この例は、以前に引用した。
 
(2)自己意識が成立するための条件として知的直観を想定する。
たとえば、講義ノート「新たな方法による知識学」(1797-99)で、次のようにいう。
 
「我々は、[我々に対して]反立された物もしくは外的客観を意識することが出来るためには、我々自身を意識していなければならない、つまり我々自身が客観でなければならない、と。これは我々の意識の作用によるのだが、この作用を我々が意識することが出来るのは、我々が我々自身をまたしても客観として思考し、これによって我々の意識について意識するようになる事によってである。しかし、我々が我々の意識についてのこの意識を意識するようになるのは、またしても、我々がこの意識をもう一度客観とし、これによって我々の意識の意識についての意識を得ることによるほかない。こうして無限に続く。――だが、こんなことでは我々の意識は説明されない。むしろこれによれば、我々の意識は全く存在しない。なぜなら、人は意識を心の状態もしくは客観だと想定し、それゆえ常に主観を前提するのだが、この主観を見出すことを決してしないからである。この詭弁がこれまでの全ての体系の根底に――カントの体系の根底にすら――あったのである。
 この論難を除去するには、つぎのようにするしかない。すなわち、そのもとで意識が客観であると同時に主観でもあるようななにかを見出すこと、したがって、直接的意識を樹立すること、これである。
これを達成するには、我々が自分自我を思考する場合にそれをどのように行なっているかに注目すればよい。我々は、自我を思考する際、同時に思考するものをも意識してはいなかっただろうか。行為する自我はまた同時に、自分が行為していることを直接に意識してはいなかっただろうか。私は私を措定するとして措定する(Ich setze mich als setzend)。これは直観である。[・・・]自我は措定するものと措定されるものとの同一性であった。この同一性は絶対的であり、あらゆる表象作用を始めて可能にするものである。自我自己を端的に措定する、つまりいかなる媒介もなしに措定する。自我は主観であると同時に客観である。自己を措定することによってのみ、自我が生じるのである。――自我は前もってすでに実体としてあるわけではない。――むしろ、措定するとして自己自身を措定することが自我の本質であり、それは一にして同じことなのである。そうするやいなや、自我は自己自身を直接的に意識している。[・・・]こうした直観は知的直観である。」(Wissenschaftslehre nova methodo”  GAIV, 2, 31f, 「新たな方法による知識学」『フィヒテ全集第7巻』千田義光、鈴木琢真、藤沢賢一郎訳、pp. 24-25
 
この引用で重要なことは2つある。どちらも、D. Henrichがフィヒテの「根源的洞察」として高く評価していた点である。
 
①「自我は前もってすでに実体としてあるわけではない」
知的直観は、精神的実体の作用であるのではない。フィヒテは、実体としての自我自体のようなものを考えない。
②「私は私を措定するとして措定する(Ich setze mich als setzend)」
自己意識は、単なる自己反省の構造だけでなく、als構造が必要である。なぜなら、自己が何であるかが解かっていなければ、自己を対象としていても、それが自己であるとは解からないからである。それゆえにals構造が必要であった、とHenrichは言う。しかし、ここには、矛盾がある。第一に、仮にある概念で自己を捉えたとしても、その概念が妥当するものが複数存在しうるとすれば、そのような普遍的な概念で自己を同定することはできない。第二に、als構造は概念を必要とするはずであるが、これは直観であると言われている。(このような困難を突破して、自己を意識するためには、概念によらずに自己を捉える知的直観しかないのかもしれない。主観=客観であるだけでなく、そのことがなぜか解かっているという知的直観を考えざるを得ない。これは概念を超えているという意味で、永井氏の<私>の意識と同じものかもしれない。)(Fichteがこのように語るとき、als構造に重点があったのではなくて、主語が指示するものと目的語が指示するものが同じであるということを示すことに重点があったのではないだろうか。このことは、他の同様の箇所にも当てはまる。)
 
次のどれかに答えてください。
問題1「自己意識とは何でしょうか?」
問題2「一人称代名詞「私」を使用できるということは、自己意識をもっているということでしょうか?」
問題3「「私」を使用できるためには、知的直観が必要でしょうか?」
問題4「自己意識が可能であるためには、知的直観が不可欠でしょうか?」
 
(これらの問題に関心の或る人は、G. ライル『心の概念』(1949) 第6章「自己認識」を読んで下さい。フィヒテならば、それにどう答えるでしょうか?)
 
 
(3)行為が成立するための条件として知的直観を想定する。
フィヒテは、行為するには知的直観が必要であるという。
 
「それぞれの行為において、私の自己自身の知的直観がなければ、私には歩くことも、手や足を動かすこともできない。この直観によってのみ、私は私がそれをしていることを知る。この直観によってのみ、私は私の行為を目の前にある行為の客観から区別し、この行為において私を目の前にある行為の客観から区別するのである。」(『第二序論』SW1-463
 
少し後の箇所でこれをより詳しく述べている。
 
「私はあれこれの特定のことを考えようと決意する。すると、求められた思想が継続して起こる。私はあれこれの特定のことをしようと決意する。すると、それが行なわれるという表象が継続しておこる。これは意識の事実である。これを私が単に感性的な意識の法則に従って考察するならば、この意識の中には、たったいま述べられたもの、つまり何らかの表象の継起のほかには何も存在しない。私が意識しうるとすれば、時間系列の中のこの継起だけであろう。私が主張しうるとすれば、このような継起だけであろう。私が語ってよいとすれば、存在するはずだという徴表とともに特定の思想を表象することにつづいて、実際に存在するという徴表とともに同じ思想を表象することが、時間のなかで直接的におこったということ、すなわち、存在したはずの現象として特定の現象を表象することにつづいて、実際に存在した現象として同じ現象を表象することが、時間のなかで起こったということを知っていることだけであろう。しかし、私はこれとはまったく異なった命題、すなわち第一表象に第二の表象の実在根拠があるという命題、私が第一の表象を考えたことによって私に第二の表象が生じたという命題を言明することは出来ないであろう。私は単に受動的なもの、さまざまな表象が入れ代わり立ち代り現れる静止した舞台であるにとどまり、それらの表象を産出する活動的な原理ではないであろう。ところが、私は、この原理を想定する。そして、私は自分自身を破棄することなしには、この原理を破棄することはできない。(SW1, 465 「知識学への第二序論」『フィヒテ全集第7巻』pp. 412-413) (強調下線は入江、以下同様) 
この原理を想定しうる根拠は、「純然たる活動の直観」465である。
 
決意が行為の「実在根拠」となりうると、フィヒテは考えている。決意が、行為の原因になるのだと考えられる。フィヒテは、『道徳論の体系』(1798)では、はっきりとそのように述べている。
 
「意志は、やはり私の身体に対する原因性を、しかも直接的な原因性を持つべきである。そして意志のこの直接的な原因性が及ぶ限りでのみ、身体は、道具あるいは分節となる」SWIV, 11
 
意志と行為(ないし身体)の関係は、(意志の)表象と(身体についての)表象の関係である。この関係が、必然的な因果関係であれ、自由な因果関係であれ、それを捉えると共にそれを実現するものとして「知的直観」が理解されている。
 
(5)論理的な推論が成立するための条件として知的直観を想定する。
 
フィヒテは『全知識学の基礎』(1794)の冒頭の第一根本命題を、論理法則AAを可能にする条件として証明する。
 
„Erwiesen: A ist A, weil das Ich, welches A gesetzt hat, gleich ist demjenigen, in welchem es gesetzt ist: bestimmt; alles was ist, ist nur insofern, als es im Ich gesetzt ist, und ausser dem Ich ist nichts.“ SWI, 99
「証明:AAである。なぜなら、Aを措定した自我は、Aがその中に措定されるものと同じだからである。存在するすべてのものは、それが自我の中で措定されているときにのみ存在し、自我の外には存在しない。」
 
フィヒテによれば、「AAである」とは、「もしAならば、Aである」と言う意味であり、前件と後件のこの結合の必然性は、論理的な必然性である。この論理的な必然性を成立させているのは、Aを考える自我とAがそこに存在する自我の同一性である。つまり、第一根本命題「自我は根源的に端的にそれ自身の存在を措定する」Das Ich setzt ursprünglich schlechthin sein eigenes Seyn. に基づいているのである。この第一根本命題は、「事行」Thathandlungの表現である。この事行は、「知的直観と同じものである。つまり、表象の論理的な必然的な結合もまた、知的直観によって理解されるとともに実現される。
 
2、知的直観の証明不可能性
 
「この直観[知的直観]は、私が行為するということ、そして私がどんな行為をするのか、といういうことについての直接的意識である。この直観によって私が何かを知るのは、その何かを私がしたからである。このような知的直観の能力があるとということは、概念によって例証されることではないし、この能力が何であるかということも、概念から展開されることではない。一人一人がこの能力を直接的に自己自身の中に見出さなければならない。そうでなければ、誰しもこの能力を知ることは決して無いであろう。この能力を推論によって一人一人に証明すべきだと要求することは、生まれつきの盲人が、自分には見る必要がないのに、色とは何であるかを自分に説明してくれと要求することよりも、はるかにずっと奇妙なことである。」(SWI, 461、「知識学への第二序論」『フィヒテ全集第7巻』pp. 410-411
 
①知的直観は、言語で表現できない。
なぜなら、言語で表現することは概念で表現することであるが、概念は、他の概念との対立によって意味を持つ。しかし、知的直観は、主観-客観であるので、対立を超えている。もちろん「主観-客観」や「対立を超えたもの」という言い方もすでに、対立に巻き込まれている。因みに、第一根本命題は、「事行の表現」であって、事行そのものではない。
 
②直観主義と決断主義の並存
フィヒテは、観念論をとるか、実在論をとるかは、両者の間で議論が不可能であるから、決断の問題になるという。しかし、他方で、知的直観に基づいて観念論を主張していた。もし、知的直観が確実なものであるのならば、観念論の採用を決断する必要はなく、直観によって知識学を基礎付けられるはずである。しかし、フィヒテはそうしなかった。その理由は、知的直観とそれの言語表現の間に大きなギャップがあることを自覚していたからであろう。